どういうみちをえらんだかはけっこう幅があると思うけれど
そのみちをどう歩いているかは自分ではさからえない現象だと思う。
チェコを知るためにチェコ語を話すべきだと思ってからしばらくたった。
たぶん歩こうとしたら誰でも歩けるみちだし、チェコ語を話そうとして話せるようになった人もおそらくおおぜいいる。
が、そこからはもう私がむかしからやってるようにしか進めないのだ。
ちいさいころから、年下の複数のきょうだいがぶつかるたびに
どうふたりともにわかるようにいさめたらいいのかをまいにちまいにちかんがえた。
大声でおさえつけるのがいいのか
説得力があることばはなにか
注意をひくには何がいいのか
毎日叱るのに今日もけんかになるのはどうしてか。
もしひとりっこだったり、おとなしいきょうだいだったり、年上のきょうだいがいたりしたら
そんな工夫をすることなく年をとっただろう。
ひとりで妄想をふくらませていても邪魔がはいらない環境だったら
ちがうこともできたかもしれない。
でも思い出せば、下のきょうだいが泣かないように、
落としたおもちゃのために私は川に飛び込んだ
台風の風で傘にぶつからないように力を貸した
親の留守に自分の勉強を中断して仲裁をした
プライドが傷つかないようにだいじなところはやらせるようにして宿題を手伝った
いまでもそれはないんじゃないかと口をはさんだりする。
いい迷惑だろうけど、
わたしのなかみはずっとそうやって考えを組み立てた。
それ以外の組み立てかたを思いつかないほどに。
同じチェコ語を話すにも、
説得して伝えようとした懸命な気持ちとか、
伝わらないことでもどかしくなる気持ちとか感じることなく
チェコ語が話せるようになったとしても
そこで私が何をしたかと思うと、ぴんとこない。
何をするか、何ができるかはやっぱり過去に努力してきてしまったほうに似てくるのだ。
何にもあらがわず、きけんもおかさず、静かに生活していたか?
そんな生活をしてきていない。
ただそこにいる小さい人たちがけんかするな、いじめるな、泣くな、と思っていた。
もうずっと願いはそこだといっても過言じゃない。
なんでかはわからない。
泣いたりけんかしたりいじわるしたりする人をみてほっておけるような人間ではないみたいで
やめろというために考えたし、やめさせるために考えた。
平和で、しずかで、せめて笑い声くらいで、だれもけんかしていなければよかった。
それがずっと到達目標だったけど、できたかどうかは自信がない。
いまも似たようなことをずっと思っているような気がする。
解決できないレベルで対立しているひとたちのいる空間はいられない。
いやがる人にたいして叫ぶ力と声が足りなさすぎる。
だけどまだあるきはじめて短い人にはできるかぎり力を貸そうとしてしまう。
私以外の人もそうじゃないかと思う。
どんな仕事をしていてもきっとあるきかたは小さいころからずっと同じなんじゃないかと思う。
自分がやるまえにうまい人を見きわめてから同じ方法をえらぶとか、
つくりだす工夫は知らないけど人がやってたらできるとか、
自分が有利になりたい気持ちがずっとあったとか、
そのために言わなくていいことをだれよりじょうずに判断できるとか、
もっとうまく生きてる人がたくさんいるのかもしれない……
そういうのは私にはないけど、けっきょく同じことだ。
私だってうまく生きてるようにみえるだろう。
そう思われていることだけが救いだ。
川に飛び込んでるなんて思われていないことが救いだ。
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