自分なんてもともとないのかもしれないし、「自力」といわれればそれまでだ。
気のせいかもしれない。
が、過去の記録はパソコンのモニターを通して残っている。
あのときまったく見えないところで、多少誰かを喜ばせるような機会をもっていたのかもしれない。
そして、あのとき私は元気だったような気がする。
いまの私はあのときの私を捜しているような気がする。答えはない。
私がいようといまいと、あの人はつねにシニカルでユーモアにあふれ、昔から同様にかっこよく、何よりも文章が上手であった。
よく考えたらひょうきんではあったがもちろん無愛想でもあったし、どうしても陽気にこなせないこともあったのだと思うが、私はあの人を尊敬していたので、すべてがすばらしく思えた。
失った。
あるときそういうすべてのものを失ったようだった。
失ったのかどうかわからない。けど、欲していないことはわかった。
でも少しだけ気づいている。
世の中には私よりもっとがんばっている人がいて、もっと魅力的な人がそこらじゅうにいて、そういうコミュニティーがたくさんたくさんあって、そこではるか彼方から私がぬきんでるようなことを、いつもいつも望んでいるのはとても非生産的だということだ。
あきらめたほうが早いことが世の中は多い。
あきらめないとすすまないことがたくさんある。
しかし。
そういうときこそ私はあきらめないことを選びがちになる。
いまでも言う。尊敬している。会えたらいいと思っている。もいちど話せたらいいと思っている。
でもすべて、自力ではできない。
そんなことを考えるあいだに、みりみりと私を時間という資本主義の社会が囲い込む。
助けてください。