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března 2008

事実のみを

今日は引っ越しの日であった。私の家ではない。
が、私が使う予定の場所なので、私のなかではぜひ手伝うべき行事である。
引っ越しの作業もべつにきらいではない。いつもより朝早いのも問題ではない。

そのはずが。

メールで目は覚めるも、水を飲んだり、お手洗いに行ったりするのだが
起きて着替えて外出、という段取りまで行かない。
ふとんに戻る戻る。

気づいたら夜7時すぎだった。
もう巨人は負けたらしいし、
引っ越しの手伝いをしなければと思うせいか、引っ越しをしている夢ばかり見るし、
とりかえしがつかない感覚に陥り、げっそりしながら起きる。

どうしようどうしようと思いながら、おわびメールをする。
顔すらも出さなかったのに、ゆるしていただいてほんとにありがたい。
ああー、やっちゃったーー。けど、もう時間は戻らない。

この期に及んで腹を空かしている自分がちょっとむかつくが、ツナマヨでご飯をたべる。

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何も足りないものはない

何も足りないものはない
足りない気がしていて
いやになる

努力も、味方も、物質も、時間も、空間も、意欲も、健康も、知恵も、体力も、器用さも、愛らしさも

もっとやれるはず
もっとやるべき
むかしはあったはず
もっとできたはず
なんて焦りだけはある

足りないと思うほどに
これまでの私はどれほど考えなしだったのか
むしろ悲しくなる

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オルゴール使いの巻

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彼岸に帰省してました。法事。

デナリさんがなぜか山梨で大活躍だというので、見てきました。ワクワク。

山梨県立科学館デナリさんの描いた絵によるプラネタリウムを見てきて、午前中からはその原画展をやっている清春 旅と空想の美術館に行ってきました。

デナリさんの絵はすごい。

いままで曲線や全体の輪郭線が印象的だと思っていて、デザイン性が高いというのか、
「強い絵」「かわりのきかない絵」という印象をもってました。

が、プラネタリウムの絵は、モノクロなのに、すごく表情豊かで
物語のなかに出てくる登場人物にぴったり。
でも、見ていて、デナリさんの絵だとわかる。

「かわりのきかない絵」ということは、
ストーリー(登場人物)がつくとなると、絵の特徴を抑えていないとうまくつりあわないのではないか
と思っていましたが、そんなことはまったくない。


ストーリーに集中できて、いまも頭に残り、
しかもイラストが同時に頭に浮かびます。
描いた人のタッチまで含めて組み合わせて印象に残り、
デナリさんの絵しかありえない作品になって記憶に残っているのです。

いや、すごかった。


原画展は3月いっぱいですが、
プラネタリウムは山梨県立科学館で7月13日まで続き、
さらに日立シビックセンター(茨城県)でも上映されてるみたいなので、
ぜひ観たほうがいいです。おすすめしたいと思います。

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それでも朝が来る

それでも朝が来る
それでも朝が来る
ときどき飛ばして昼が来る

昨日は長く、気持ちのわるい夢を見た
なにか取り返しのつかないような気がした

人生は暗示の連続で
何を拾うかは個人にまかされている

私は拾ったことがないようなものも
拾ったほうがいいような気がしていて
これまで拾いまくっていたものを
捨ててもいいような気がしていて

せめて今夜は悪夢を見ないように
カモミールティーなぞ飲んでみる

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ことばにのせて気持ちは届く

なんかいろんなことを学ぶ昨今ですが、いまとくに思うのは
何か一つでも気くばりが足らないと人によってはすごくださくみえてしまうことがある、
ということでした。
ださいというのは、友情や憧れのために従おうという気持ちを削がれるということですけど。

そういう生き方をしないようにしたいので、
全方向に気をくばるようなことはできないにしても
「絶対にここだけは」というところは本気で守って攻めていかないといけない
と思いました。
あたりまえすぎるほどあたりまえだけど、
忘れたり気を抜いたりときどき限界になったりしてしまうから。

たぶん、肝心のカンは鈍くないと思うのです。
警戒心が強いということは気づくのも早いはず。
だけど、自然のカンに逆らうような決断や判断を、
ずっとしつづけてきたような気がちょっとしてきています。
後悔や過去の自分を戒めるような気持ちになることもありますが、
じゃあ今ならカンを信じて進めるのか、というとけっこうむずかしい。

そういう、自然に逆らうような判断をした代償を
私は甘んじて受けなくては、と思うのと、
ずっとずっとあとになって、いつか時効になって、
憎む必要も苦い気持ちになる必要もなくなったときに
いい香りや必死ではあったというよい印象とともに私のことを
あの人もあの人も、笑いながらほほえましく思い出してくれたらいいなと思うのです。

そういう何十年後、何百年後のために生きていたらいい、と思う。

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夜明けまでに

山崎まさよしの「真夜中のBoon Boon」、ドラマの主題歌になっていることもあり、
そんなに関心は高くなかったけど、耳にする機会が多くなり、
そしたら、出だしがとてもいいのですね、この歌は。

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申し訳ないくらいです

花粉症20年弱。
今日はたくさん歩いたので、黄砂も多いときいていたのですが、ばりばりに症状が出ました。
夕方、久しぶりに再会するチェコ人の先生と1時間過ごしていたのですが
緊張感がある場だと、鼻水も控えめになるようです。
たぶん鼻のなかや顔の筋肉が緊張するのでしょう。
再会を果たして、帰る電車では、隣の人に申し訳ないくらい、ティッシュを使いました。
いや、うるさかったり目障りだっただろうなと思いまして。
申し訳ないくらいです。

申し訳ないのはもうひとつ、〆切をとうに過ぎた原稿が遅々として進まずにいることです。
これを終わらせないと次の自分のためのものも手がつかない。
花粉症のせいにもしたいのですが、そんなことで言い訳してすむわけじゃない。
自分でできると思っていても、限界が意外と近くて申し訳ないくらいです。
嘘つきたいわけじゃないんですけど、まったく自分で把握できず。
現状で対処してもらう、という対策しかできずにいて、これは本当に申し訳ないくらいです。

家にある高いやわらかい箱のティッシュも残りわずかのようです。
買ったばかりと思っていたのに、大半は鼻から出る水分を吸い取り、ゴミ箱に移動しました。
それに比べて、唇や口腔内の乾燥。
花粉症は、体内の水分が、
花粉や細かい黄砂によって正常に機能するのが困難になった「鼻」を助けるべく、
がんばって移動して鼻から異物を体外へ出そうとする状態なのではないか
と思うくらい、花粉症歴が長くなり、重症であるような気がします。
同様に、ちょっと目も涙が出るのです。
そんなことを書くことはできるのに、原稿のほうが進まないのが申し訳ないです。

これも、ちょっと何かの解決になるかと思い、書いています。

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あと最近たまたま、
好きでいつも楽しみにしている文章を書くお仕事をしている女性(複数いるのですが)が、
最近アップした文章を読んでいて
どうもうなずけないな、とどちらに対しても同じ気持ちを抱いたのでメモしておこうと思います。

どちらの人も、「私はそういうのはできないと思っている」という話をしていました。
だけど、その長い、きれいな文章を読んでいると

できているんじゃないか

と思うのです。

文章もうまいし、本人はできないと書いているけど、よほどできていて、
多くの人を魅了していたり、十分事は足りていたりするのです。
なのに、本人はけっこう長い分量を使って、どれだけ自分がそれに向いていないか
どれだけそのことに前向きになれずにいるかを書いていました。
でも、やりたいんだろうな、というニュアンスで。


ええ、どんだけー

と思いました。
できてますよ、他に何がしたいんですか!!
と言いたかったですが、
ネット上なのでこの勢いのある印象を伝える言葉はうまく出ませんでした。
謙遜なのかもしれないのですが、好きな書き手さんだけに、
謙遜なんてしないでがんがん思うままに進んでくれればいいのに、
というのが私がもった印象でした。

二人とも私にはできないことをしていて、
しかも私以外にも大勢のファンがいるような書き手です。
そして、苦手だと語っている中身も、その人ならやろうと思えばすぐできることなのに。
これまで読んできた文章の節々からも、多少なりともできているのはわかるのですが。

彼女たちは、いったいどこを目指しているんだろう。
漠然と言ってるだけなんだろうか。
できないと書きつつ、私よりできているかもしれない様子を見ていると
なんだか
できてる気になって、そんなこと気にもとめずにいた自分が恥ずかしく
さらに悔しくなるので
あんまり書かないでほしい、黙ってやっていてほしい、と勝手ながら思いました。

まあ、そう思ったところで、私はたぶん脇目もふらずに自分がやりたいことだと思えば、
できるできない、分相応不相応、という予想や判断なしに、
やるときはやってしまうと思うので、いいんですが。

でも、そんな卑下しなくていいのに、
やりたいんだったらつべこべ書かずにやればいいのに、
そんだけ認めてくれる人がいっぱいいる環境で、
トラウマっぽく告白とかしちゃうのか、と
好きな文章を書くタイプの人だったので、よけいに思いました。
落胆というか、「何言ってんですか!」とつっこみたい感覚でした。
やりたいと言うなら、やればいいですよ。
実際できるわけだし。
少なくともできているのだし、いまから磨きをかけて
勝負に出たらいいんじゃないでしょうか。
そのまえの不安を吐露されて、どうしたらいいのか。
励ませばいいのか、黙って読んでうんうんと言えばいいのか……
そういうつきあいがちょっと苦手です。どうしたらいいのかわからない。

こんなだから、本気を出して話すと、一部の女性の友達からは
「ちょっと怖いよね」ってかげで言われてしまうのでしょうか。
(言えばいいと思うけど、理解されないのがわからない)

まあ、誰もが前向きで猪突猛進な人じゃなくてもいいのか、こんな世の中だし。
迷ってるなら迷ってると書いてるのをほほえましく見たらいいのか。

最近まだ夜眠れないのです。申し訳ないくらいです。

法事がまた、週末にあります。
スガシカオと誕生日がおなじ祖母の3回忌。
ずっとずっと墓参りしていますが、おばあちゃん、私どうしたらいいんでしょう。
また桃でも投げつけてください。って甘えてるんでしょうか。

数ヶ月ばかり、田舎に引っ込んで、桃の受粉とかブドウの剪定とかしてたいです。
いろいろなことを約束してしまったのでなかなか無理だけど。

まま、来年以降にでも考えましょう。今年はもうちょっとがんばらなければ。
めざせ健康。

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信じがたい

今日ひとつ、あきらめそうになったとき
おそろしいことに、声がきこえた

実際にそんなことばをきいたことはないが
わたしの空想のなかの声じゃなく
まるで電話でもしているかのようなリアルさで
私の名を呼び、がんばって、という声がした

いかにもあの人が言いそうな声色で
しかもわたしの必要とするその瞬間に
弱りきった私のもとにその声がした
天から降ってきた

確認する方法もないけど
なんだか私のなかの妄想力が冴えていたのか
本当にそう思ってもらっているのか
あきらめずにいようと思うくらいの力があった

思わず返事をしてしまったくらいだ
あの人にそう言われたら、
わたしはがんばるしかない
なんでこの瞬間にそんな口調であの声が?

とりあえず、またも助けられた
とにかく私の人生でそういう存在なんだろうと思う
お礼をいわなければならないと感じているが
お礼をいわないほうがありがたいのかもしれないので黙っておく

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22か月

こんなに毎日がずるずると動くようになったのは、そういえばなぜだろう。
いろんな劣等感や妬みやひがみや許せなさという感情は、どこから来るんだろう。
そして、それらに邪魔されて自分の道をますます苦しめているのはなぜだろう。

可能性や向上心が、私はとても好きだった。
未来に向けてならどんな夢を見る自由もあり、現在をカバーでき、なんでも耐えられる気がした。

そんな感覚をなくすくらい、ずっと狂った方位磁針のようにブレている。

なぜかその解決策に私が持ち出したのは過去で、とうの昔に捨てた気分になっていて、自分からいらないと言ったものを、わざわざ拾いにいき、這うようにひきずりに行った。
それはそれは美しかった過去に、現在の泥を塗りたくるような真似をしてしまった。

でも、これまた優しい過去は、さっと昔どおりのやりかたで、私を私の道に戻すのだった。
積みかさねてきたものが、もはや過去のなかに私を戻さない。
私の泥など、みんなには、はじいてつかなかった。つけたいと思ったつもりもないのに。

何年経とうとも、どんなに変化させられようとも、自浄作用を期待していたい。
私は私に戻れるはずだ。

自分が選ぶ道なんて、たいして正解には近くないかもしれないが、他人に要求された道では私は羽を伸ばさないから、私は私のために選ぶ。

いろんな出来事で、たくさんたくさん抱えてしまった淀みを、誰のせいにもせず、自力できれいにしていくように、そういう強さをもつように。
それなら、生きていける。

私のきれいさなんて、そもそもろくにきれいではないかもしれない。
それだけに、汚いとわかるような自分は、いちはやく元気にしてあげないといけない。


流れる季節のまんなかで、ふと日の長さを感じます。

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大岡山

東急線にそういう名前の駅があるが、もし大岡山をローマ字表記することになったら、どうしたらいいんだろう、とか思う。

oookayama

ookayama

okayama ←岡山になる

o-okayama

ohokayama

みんなどうしているんだろう。
たまに平仮名で駅名を見ていても、

おおおかやま

という「お」の連続にちょっとびっくりする。

同じことが大岡越前でもいえる。

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年の功

ちょっとしたニュースを見た。
誰かに言いたいが、あまり言いふらすようなことでもないし、言ってわかるような相手ももうそんなにいないし。

二人なら幸せ二倍、悲しみは二分の一、とかいわれるが、一人なら幸せは二分の一、悲しみは二倍になりうるような気もする。

一人ででかく考えてしまわぬよう、自分で方向転換を試みる。
まず、これは幸せをもたらすニュースなんだと思われる。

私のなかでは衝撃しかなかったが、本人は幸せだし、私の生活に影響はほとんどない。
そして、本人の喜ぶ顔がもしみえたら、私の生活にも幸せが伝播するだろう。
よって、よいニュースである。

遠くにいるべき存在、という関係もある。
抱えているものを片付けてから、という時期もある。

そういう流れのなかで、このニュースはめでたく、私のなかでも祝う気持ちでいればいい。

おめでとう。よかったね。

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おとしどころ

占いなどあればいちおう読むが、いろいろなことを後になって気づくタイプなので、
「いやあ、占いどおりに、ほんとに今日はラッキーですな」
ということはほとんどない。

でも、今日はラッキーな感じがする。

たぶんいろんな懸案事項がひとまずのおとしどころがみえたからだと思う。

そういうときに、ラッキーですよ、という占いを読むと援護射撃みたいになる。
よりラッキーだと思う。

あんなに欲しかったものが手に入らなくても。

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古いシルクハットから出た話

チェコ語で書いたユダヤ人の作家アヴィグドル・ダガンの翻訳が出ましたよ。
このシルクハット、日本橋高島屋で買ったものだというから、「へーー」である。
世界をめぐったチェコ人の話はおもしろい。日本語で読めるのであれば、ぜひ広く読まれてほしい。
ふつうのチェコ人の話もおもしろいけれど。

この本が手元に届いたあと、チェコ旅行に出たのだが、最後の一日をどう過ごすか考えて
駅の窓口でフラデッツ・クラーロヴェーと伝えた。

別に行く予定も、目的地の候補にも入ってなかったのに、不思議だなと思いながら列車に乗っていた。
帰ってきて、この本をみたら、ダガンの生まれた街がフラデッツ・クラーロヴェーだった。

エルベ川のきれいな街でした。

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私のせいじゃない
とか
あの出来事のせいだ
とか
考えることがふえた。

よくない方向なのだろうという気がするけど、何か起こったときに私にはどんな責任ももてないんだよなとすごく感じる。

世の中にはいっぱい人がいて、誰も間違いをしないし、同時に全員が間違いをしながら生きる。

自分が自分で納得できる状態でいればいいのだろうが、そうもいかないことが多い。
考えすぎはだめだよ、ともいわれる。

こんな行動原理ではなかったと思う。
けれど、時間がたつし、状況もかわるし、私も変わる。

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