亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』異例のベストセラーですよ。
これは困った。すごく私が自慢してしまう。先生のゼミで卒論書いた。
そのころ、亀山先生といえば、ロシア・アヴァンギャルド一色であった。
ゼミも相当おもしろかったが、亀山先生の「ロシア・アヴァンギャルド」という単語はなんとなくおもしろ半分というか、気どっている感じで、本質のわからない二十歳前後の私たちにはただの変わった称号にすぎなかった。
私が「チェコ・アヴァンギャルド」を卒論にといったのも、先生の鶴の一声であったし、なんとなくそうしておけばいいんだろうという気持ちであった。私もそのへんな称号のチェコ版を冠したかったのだ。
そのころ、亀山先生はNHKのロシア語講座に出ていて、アクセントのない栃木なまりで解説をしていた。テレビに出るようになって、少しはまともな格好をするようになったとかいっていた。
長身で、ぷっくりとした手で、先輩は「亀山先生の手がおいしそう」とよく言っていた。
先生のロシア・アヴァンギャルドはその後、スターリン時代の文学へと研究対象が移っていく。
私は卒業してしまったのでなぜそちらへ傾いていったのかはわからなかったが、しばらくして先生の著書は大佛次郎賞をとる。
さらにしばらくして、しばらくして、妙に活発になる先生のウェブサイトとブログ。カフェ・マヤコフスキーがオープンしていた。
亀山先生のロシア・アヴァンギャルドの代名詞といってもいい詩人の名のついたブログ。
ドストエフスキーを訳しているのはそのなかで知っていた。
そして、ブログであいかわらずな幻想的な日記をつづるのをうれしく読んだ。
最近、亀山先生の講演があると行けるだけ足を運んでいた。
いまでも、私が学生のころ聞いた話が繰り返されることがあった。
そのおもな部分が、ドストエフスキーとカルトの話だった。
ドストエフスキーは古典であり、ロシア文学であり、世界文学であり、当然いくらでも解説されてしかるべきだが、同様に繰り返されたのが「鞭身派」の話であった。
私がはじめて聞いたときはまだオウム真理教による地下鉄サリン事件が記憶に新しいころで、ロシアの片隅にあったであろう、カルトの解説と先生のなかにあるの関心にぞくぞくしたのを覚えている。
今年、先生のなかでカラマーゾフの兄弟とロシアのカルトの結びつきはより濃密で鮮明になって解説されていた。
「去勢派」というカルトがさらに謎を解明する手がかりになっている、しかもとても大きなキーワードであることがうっすらほのめかされていた。
こわい、ドストエフスキー。だからスターリンか! アヴァンギャルドか! アレクサンドル2世ってそこか! 農奴解放ってそういうことなの? わわー。先生、どうしてそんなこと解明しちゃうの、きゃー。
そのあたりは秋頃に本となって出るようなことを言っていたので、楽しみに待ちたい、が、本当は先生の口から聞きたい。
亀山先生はほかの大学の先生の多くがそうであるように、ほんと悲しくなるくらいほったらかしで、当時心細くチェコ文学なんかに手を出した私はもう少しかまってほしいと思っていた。
が、失礼千万で書くけれど、先生にはなんとなく愛嬌があって、私は好きだった。
関心がもてないのはべつにしかたない。もてるようなテーマや見解を私たちは先生に示したらいいのだ。ああ、これじゃあペットに新しいえさを与えるみたいだが、そんなキャラクターであった。
つまらないものにはほんとうに愛想がないかわり、自分の興味のあるジャンルを語らせると並ぶものがいないほどの洞察力で、誰も行かないような真実にぐんぐん迫ってしまう。
講義中の先生を止めることができるものは誰一人いない。
自分で書いたレジュメすら、先生の語りの前ではただのメモ用紙になる。
事実を解明したいという素直でまっすぐな欲求と、どっかで自慢したほうがいいんじゃないかと思うほどの誰も追いつけない好奇心。
それをもって、新しいロシアの作家の生きた時代をときほぐしていく。
たぶんうれしくてたまらず、学生に聞いてほしそうにして、読み聞かせでもするかのように語っているのが先生の授業であったような気がしている。
なんとなくそれがある到達点まで至ったのが、今回の『カラマーゾフの兄弟』への評価となっているんじゃないかと思う。
だって読んでほしくてたまらないもんね、先生ね、とつい思ってしまう。
知識披瀝とか日本語へのプライドとかそんなのまったくなく、「だってこうしたほうが読みやすいでしょ」「だってこうしないと話がつながらないじゃない」「これはね、ださくなっちゃうの」と、ひたすら読むための翻訳執筆を続けた先生は、これ以上ないくらい立派だ。
出版社もよくがんばっていたことだろうと思う。
もう戻らないゼミの時間がなつかしい。
先生がちょこっとだけチェコの詩人を知っていたことがあった。
ヨゼフ・ホラ。
共産主義時代の化石のような詩人の名前だったんじゃないか。
ロシア語の文献で読んでいたようだ。そのため、先生が知っている名前は「ゴラ」だった。
「チェコの詩人でさ、ゴラっているよね、ゴラか、ゴーラか」
「……ホラ、じゃないかと思います」
「あっ、ホラか! ホラだね、そうか」
それくらいの接触しかおぼえていない。私は先生に何か覚えてもらえているようなことができただろうか、と思う。
先生のアンテナの高低を思うに、先生の記憶に残っているとしたら、私はまだまだ何かやれる気がするのだ。
私は勘がいいとか思ったことはないんですが、こうして先生のゼミに入っていったことは、えらく鋭い学生だったと思います。
まっすぐにカリキュラム上、私がやるべきことをやるべき場所でやろうとしたら先生の研究室がありました。やるべきことができたかはわかりませんが、いまだに先生のお仕事に励まされております。